ブラジル・日本人サンバダンサーの華麗な日常

ブラジルに住む日本人サンバダンサーの全く華麗ではない日々

私の知ってるカルメンのこと

今日はずっと書こうと思っていた、私の友人であるカルメンというブラジル人サンバダンサーの事について書きたいと思う。

2010年のカーニバルに私がリオのインペラトリス・レオポルジネンセというサンバチームにパスィスタとして初めて参加した15年前には、彼女はもう既にパスィスタ(巧みににサンバステップを踊れるとされている、カーニバルで同じ衣装で踊る大人数(チームによるが大きいチームにおいてはその多くがだいたい50-80名くらいのグループ)のひとりとしてそこにいた。その中でも彼女はその頃から特別目立つ存在で、背が高く美人で飛び抜けて踊りが上手く圧倒的な華と人望とカリスマ性を持っていたため、チーム内外誰からも一目置かれている存在だった。

出会ったときすでにパスィスタの中でもリーダー然とした風格だったが、年齢は確かまだ18か19才くらいだったと記憶している。

 

彼女のお家のシュハスコ会に呼ばれた時には、おお、ついに私もここまで登りつめたか、、、!! と、ほくほくと喜んだ。

学校一の一軍の、町一番の美少女の家での、数人しか呼ばれない何かの会に目立たない私まで誘ってくれた、そんな時みたいな高揚感だった。

 

そして何より彼女のサンバは本当に素晴らしくかっこよくて、いつも惚れ惚れして目が離せなくなってしまう。そしてまた彼女の踊ってる映像やインスタを見るたび、

 

おおおーーー!くうう!やっぱカルメンは超絶かっこいいぜー!!!

と、身悶えして、時には感動して涙してしまうくらいに。

 

 

以前のブログでも少し彼女について触れたが

 

www.joebrasil.net

 

一見クールでアンニュイ、たれ目に濃ゆくて長いまつげが印象的な意地悪顔(ごめん)の美人だ。

ちなみに彼女の家族もインペラトリスのメンバーで(父、姉、妹)は顔と身体のフォルムは違えど、もれなく全員同じ顔をしている。

 

私がインペラトリスに入ったばかりの時、みんなわりと良くしてくれたのだが、やっぱり文化の違う国の外国人であり、当時ポルトガル語もほとんどわからなかったので、疎外感を持ってしまって、みんなの輪に入れないでいることもしばしばだった。

より他のパスィスタと馴染めるようになったのは、私がそのころ友人のヤスミンちゃんと通っていた近くの行きつけのバイリ・ファンキ(ファンキというジャンルの音楽の貧民街の青空ディスコ、夜中に開催されるけど)でたまたま良く顔を合わせるようになり、私に練習時などに会うとやんちゃでイケイケなところがあるカルメンが

手拍子でファンキのリズムを叩き歌うように

🎵Vá JoE! Vá JoE! 行けjoE!行けjoE!

と煽るので、私はそれに合わせてファンキを踊らされるという謎のノリができあがり、それを面白がって近くにいるパスィスタみんなも手拍子を叩いて囃し立てるという一連の流れが完成し、そうやってフューチャーしてもらううちに自然と私は仲間として受け入れてもらえているような雰囲気になっていった。

まあ、彼女は雑なところもあるのでw、私の事を思って、というより日本人がファンキを踊るのをただ面白がってただけだったと思うけど。

それでも彼女のおかげで他のパスィスタに馴染めたのも事実だった。

 

私が入った当時のインペラトリスは、スペシャルグループの上位カテゴリーとされる12チームから落ちることは無いが、優勝争いに食い込むことも無い、というような成績で、他の有名チームと比べると人気も知名度もそこまでではない感じだった。

 

現に、私がチームに入った4年後、パスィスタと新しくやってきたジレトール(パシスタのまとめ役。わりと偉い)との折り合いが悪く、彼の息がかかった者を除いた昔からいたパスィスタ全員が理不尽に突然一斉解雇された際に、年齢も高くパスィスタとして踊れる時間はもはやないと業を煮やした私がインペラトリスを去りポルテーラという超老舗有名チームでパスィスタとして出させてもらった年には、今までいくら私はインペラトリスのパスィスタだと言ってもふーん、とピンと来ない感じだった、あまりサンバに明るくない人たちにまで、今はポルテーラのパスィスタだと言うと、

ポルテーラのパスィスタなんてすごいすごい!!

と、いろんなところでいろんな人に言われたものだ。

私の踊りが有名チームに入ったからといって急激に変わった訳でもないのに。

ま、世間は、世の中というのはおしなべてそんなものな訳だが。

 

その一斉解雇の際にはわたしもそしてもちろんカルメンもパスィスタを去らなければならなかった。

チームの数人から“あなたをパスィスタに戻すようにプレジデンチ(チームの会長、ぶっちぎりで一番偉い)やジレトール達(部長、とても偉い)”にとりなしてあげる、と言ってもらえたのだが、自分ひとりだけ他の仲間を裏切るような真似は私にはどうしてもできない、と言って断った。

その時の広報担当のジレトーラ(部長職のポルトガル語の女性形)でずいぶん目をかけて良くしてくれ、その時も上部にかけあってあげると言ってくれた女性に

「あなたのその気持ちは美しいと思うけど、、、そんなきれいごとを言っていたらあなたはもうこれからここのパスィスタに戻ることはできないわよ?」

とも言われたが、あんな倫理観の狂った奴の下でパスィスタに戻るなんてまっぴらごめんだと思った(詳細は省くがいろいろあったのだ)。

他にもチームの人に

「そんなにパスィスタに戻りたいなら、なぜジレトールと寝ないの?簡単に戻れるわよ?」

とまで言われたことさえあった。

 

パスィスタこそ辞めさせられたが、チームから排除された訳ではなかったので、カルメンや私を含めた大部分の女子のパスィスタたちはチームの一員として無料でチームのカーニバルの山車に乗せてもらえることになって、そのほとんどがインペラトリスに居残ることができた。

男性の山車の枠はとても少なく、ひどい話だが大部分の男性パスィスタたちはインペラトリスに自分の居場所を失い、チームから去ることを余儀なくされた。

毎年カーニバルでもう7月~8月くらいから毎週、チームの翌年2月~3月に行われるカーニバルのチームのその年のテーマ曲のコンテストに通いつめ、それが決まった10月からは今度は毎週エンサイオ(チームの練習会)に参加し飲んだり得意のダンスを披露して生活のベースをそれを軸に過ごしていて、その1年間のほとんどの期間をサンバとチームと共に費やすのだ。

パスィスタは参加費、衣装代は無料で、ファベーラ(貧民街)出身の子も多く、当時の基本最低月給(当時1000レアルくらい、日本円で3万円くらい)でフルタイムで働いて、カーニバルに出るのを最大の楽しみにしている子も多いのに、そんな彼らの輝ける唯一の場所まで理不尽に奪われたことが本当に悔しくて悔しくて仕方がなかった。

 

こんな理不尽が続くわけはないと、その後私は2年山車に乗ってインペラトリスでカーニバルに出ながら、そのジレトールが去る日を待った。

 

だが、その2年の間に彼が去る気配は全く見られず、私は前述のようにインペラトリスを去って他のチームでパスィスタで出ることを選んだ。

私の他の元パスィスタたちも、他のチームに移る子や辞めてしまう子もだんだんと増えていった。

 

だが、カルメンは残り続けた。

 

 

私がインペラトリスに入って間も無い頃、いろんなチームのメンバーに、“あなたの心のチームはどこだ?”と聞いて回ったことがある。

『心のチーム』

本当に一番心から自分が愛しているチームのことを、ブラジル人はよくこういう言い方で表現する。

私は当時インペラトリスのパスィスタのオーディションに通っっていたものの、なかなか通らず(その時代は多くのチームが毎週エンサイオに通うたくさんのテスト生の中から数人ずつを合格として空いている枠が埋まるまでそれを続けていくという制度を採っていた)本当に最後のひと枠でぎりぎり滑り込みで合格させてもらった経緯もあり、とてもありがたくてパスィスタに入れた時はすでにチームに感謝と愛情を感じていた。

けれども、わりと多くのチームのひとが、

「いや、僕/私の心のチームはここではなく、本当は~というチームなんだ」

と、他のチームを挙げる人続出で、あんなに苦労してやっと入れたのに、何か価値の無いチームにいるような悲しい気持ちになった。

 

そんな中、カルメンにも同じ質問をすると、

は?何言ってんの?という怪訝な表情で、

「インペラトリス」と答えた。

さも当然のことを聞かれたことの意味がわからない、というように。

 

私はとてもとても嬉しくなった。

 

カーニバルの当日の本番のぎりぎり前にも、彼女は待機場所で隊列を組んだパスィスタ全員ひとりひとりの目をしっかりと見つめて手をにぎって、“あなたは大切なインペラトリスの一員だ、歌って、がんばって踊って観客みんなを驚かせよう”、と言って励まして回って皆の士気をあげてくれるのだった。

 

私はインペラトリスを去った後、2年それぞれ違うチームを転々とした。

そのチームごとみなさんに大変良くしてもらったし感謝はしていたのだが、やっぱりインペラトリスが恋しくて、でも戻るに戻れない状況の中、以前からサンパウロで日本人駐在員家族に向けてやっているサンバ教室の生徒さんからもうずっと、サンパウロのカーニバルに出たいけどどうやったら出られるのかわからない、どうか仕事としてサンパウロのチームで出られるようなパッケージツアーを組んでくれないか、と頼まれていたので、リオの違うチームで出た最後の年はサンパウロで生徒さんたちを始めカーニバルに出たい方を募りその取りまとめや交渉と当日スタッフをやりながらリオのカーニバルにパスィスタで出た。

リオの練習のために遅くとも10月くらいから毎週、下手したら週に2回、長距離バスでサンパウロから通いながらサンパウロのレッスンもカーニバルツアーの仕事もこなさなければならないのが時間的にも精神的にも肉体的にもどうにもしんどくなってしまい、その年、2017年を最後に自分がリオで出るのは諦め、今後は生徒さんたちと一緒のチームでサンパウロのカーニバルに出ることにしようと決めた。

 

それからは自分が関わることができないリオのカーニバルのことを考えるとどうしても心がざわついてしまうので、あまりリオのことを見ないように、考えないようにサンパウロのカーニバルに集中して過ごした。

唯一、カーニバル本番後の順位が決まった後のチャンピオンパレードは時間も作れたし毎年観に行ってはいたが、リオの友達や仲間とはほとんどもう連絡も取らずすっかり疎遠になっていった。

だが陰ながらインペラトリスをずっと応援していて、リオの結果は毎年チェックを欠かさず結果に一喜一憂しながら、その後の7年のカーニバルをサンパウロで過ごした。

 

4年ほど前のカーニバルでは、インペラトリスはカーニバルの採点の結果が悪く、下位のリーグに降格されてしまった。

 

なぜ私は今こんな時にインペラトリスにいられないんだろう。

優勝するとかしないとかじゃなくて、降格した今こそ、私はインペラトリスに戻ってチームの一員として、

“その場にいる人”

でありたかった。

そしてみんなで喜びも悲しみも苦労も全部を分かち合いたかった。

一介の踊り子で、しかも外国人で言葉もたいしてしゃべれる訳では無い私にチームのためにできることなんて全然無くて、貢献できるどころかたいして役にも立たてないことくらい私だってわかっている。

でも、それでも私はみんなと一緒に口惜しい思いも共有したかった。

役立たずながらも今すぐに駆け付けたい衝動に駆られたが、私は今はもうサンパウロで何年もかけて築いてきた仕事や生活があった。

生半可な覚悟では、時間的にも金銭的にも体力的にも、またリオとサンパウロを毎週行き来する生活に戻すことは難しいと思われた。

その頃、あの折り合いが悪かった当時のパスィスタのジレトールは辞めたと聞いて、またインペラトリスにパスィスタとして戻れるかもしれないと一瞬胸が高鳴った。だが、私と同期でわりと仲良くしていた昔のパスィスタの子が戻ろうと交渉したがその後釜の座についたパスィスタの新しいジレトーラ(女性)は例のジレトールの片腕のようなところから繰り上がった子だったので昔のパスィスタを快く思っておらず、戻ろうと試みた友人は新しいジレトーラに阻まれて結局パスィスタに戻れなかったという情報が入ってきており絶望していたたところだった。

インペラトリスにパスィスタとして戻ることは依然として叶わないだろうこの状況で、今のサンパウロの生活を投げ売ってまでインペラトリスに戻る根性はその時の私には持つことができなかった。

 

その翌年、インペラトリスはスペシャルグループのひとつ下のリーグですべての項目で満点を叩き出し、翌年は1部リーグへと復活しその翌年、上がったばかりのスぺシャルグループでインペラトリスは劇的な優勝を遂げた。

 

 

そしてその少し後、たまたま連絡を取った昔のインペラトリスで仲の良かったパスィスタ仲間から嬉しいニュースを耳にした。

 

カルメンがインペラトリスのムーザ(女神、ミューズ)に就任した、という。

昔はジスタキ・ジ・シャオンと呼ばれていた、サンバ会場において、(その中でもより豪華な衣装、位置で)ピン(チームによっては2,3人)で山車の前か群舞の間の広く特別な空間で踊る、その華々しい役職にチームで唯一選ばれたというのだ。

 

ハイーニャ・ダ・バテリア(楽器隊の女王、楽器隊の前で踊る、カーニバルにおいてチームで一番注目され誉れ高い踊り手の役職。有名人や経済力がありチームにたくさんのお金が払え貢献できる人、または縁故やチームの地元の生え抜きの子が選ばれることが多い)がそれを頂点とすると、彼女はチームの踊り手の2番目の地位を与えられたのだ。

 

そうこなくっちゃ、やっぱりカルメンは素晴らしい。

ずっと昔からインペラトリスのハイーニャになるのが夢だって言ってて、注目の地元生え抜きのダンサーとしてインタビューされてたときも堂々とそう答えていたのを思い出す。

彼女がハイーニャにならないのかは不服だったが、でもムーザに選ばれるのだって相当にすごいことで、彼女のやってきたことが長い時間をかけてちゃんと認められたことが嬉しかったし、彼女の事がとても誇らしかった。

 

 

そして去年のチャンピオンパレード。

インペラトリスの結果は2位で、それを観るのを、そしてカルメンがムーザの位置で踊るのを楽しみに観覧した。

彼女は去年ももちろんムーザとしてインペラトリスで出場しているはずで、本番も間違いなくムーザで出場していたのを事前に映像で確認していたのに、チャンピオンパレードではどこを探しても彼女の姿は見つけられなかった。

 

一緒に観覧していた日本人の友人にもカルメンはすごいと自慢をして一緒に探してもらたのにやっぱり見つけることはできなかったので、今日は何故だかわからないが彼女は欠席しているという結論に達した。

 

チャンピオンパレードに最後までいると、優勝チームの最後尾が通り過ぎた後から会場の道が解放され、次から次へと観覧していた人達がさっきまでパレードが行われていた場所に降り立ち、すごい人数が渦になって会場の道はもみくちゃになるほどにあふれる。

友人とその渦に飛び込んでカーニバル気分を楽しんでいると、なんとカルメンとカルメンと仲が良い昔のパスィスタ仲間であった男友達がそこにいるではないか。

 

カルメーン!と叫んで彼女をよく見ると、なんと松葉づえに脚にごっついギブスをつけた状態ではしゃいでいた。なるほど、彼女が今日出ていなかったのはそういうことか。

JOEEEEEE!!! と手を伸ばされ、私に気づいた2人と挨拶を交わせはしたものの、あっという間にふたりはまたカーニバルの渦に飲み込まれていった。

 

後で聞いた話だが、カルメンは本番の1週間くらい前に脚に大怪我をして、絶対に踊れる状態じゃないのに無理くり出場して本番は見事に踊り切った、ということだった。だがさすがにチャンピオンパレードは医者に止められたので出るのはやめたのだそうだ。

 

その一週間後のインペラトリスの本拠地のハーモスという地区の地元凱旋パレードでは怪我の影響は見られないくらいがっつり踊っていたのを観たので、なんだ良くなったんだ、と思っていたところ、終わって着替えを済ましたカルメンに会ったらやっぱり脚がわかりやすく腫れていてギブスをつけ松葉杖という出で立ちでいたので、ホント無茶するなあ、と、でもそれも変わらず彼女らしいと感服してしまうのであった。

 

 

そして、今年。

いずれいろいろ書こうと思うが、私はインペラトリスに戻り、パスィスタとしてカーニバルに出ることが叶った。

もちろんカルメンはムーザとして一緒にパレードに出た。

 

一昨日の土曜日は、去年はただ観る側で訪れたインペラトリスの地元凱旋パレードの日で、私は非常に感慨深くその日を迎え、そのパレードを味わった。

去年観に行った時に絶対に戻りたいと決心したその日から、非常に長く思えた私の今年のカーニバルも、やっとこれで一区切りだ。

 

カルメンも当然来ていると思ったのに、いつもカルメンが踊るパスィスタの前のピンのポジションに見知らぬ女の子がそのカルメンがいつもいる位置についていた。

『?』、と思ってたまたま近くにいたカルメンのお父さん(彼も昔から“アルモニア“というチームの隊列や調和を守り導くチームの大切なポジションの一員)に、カルメンはどこにいるの?と尋ねた。

すると彼は飛行機が移動して飛ぶようなしぐさを手で作りながら、仕事で旅行に行ってる、と、ぶっきらぼうにそれだけ言った。

彼女はサンバダンサーとして海外などに仕事で呼ばれることも多いので、売れっ子だからきっとすぐ仕事が入ってて忙しいんだなあ、とその時はそう解釈した。

 

そのパレードが終わり、帰り際に今回のカーニバルから仲良くなった友達に会ったので少し立ち話をしながら私のふざけて載せたインスタを見せていると、そういえばあのインスタはもう見たか?と聞いてきた。

インスタを開いたままにしていた私の携帯をちょっとスクロールして私に見せたその投稿は、

 

 

 

カルメンがインペラトリスを首になった、というインペラトリスのオフシャルの投稿だった。

 

 

 

彼女の今回のカーニバルのムーザの衣装をつけた写真の上にOBRIGDA!の文字が躍る。これはただのありがとう、という感謝の意味では無くて、こういう時は今までありがとう、さようなら、という意味を持つ。その下の文章の投稿を見てもやはり、カルメンはもう今後インペラトリスのムーザでは無い旨が書いてあった。

それはほんの数時間前の、今日のパレードが始まる前にみんな衣装をつけて待機していた、ほとんどの人が携帯でインスタをチェックなんかしないようなタイミングで、そのほとんどの人がパレードが終わった後でそれを知り、激しく驚いて、その後もまだまだ地元パレードの余韻も熱いインペラトリスのメンバーが飲んだりしゃべったりしている人でひしめく帰り道で会った知り合いのその誰もが、ざわざわとその話題を口にした。

 

彼女のお父さんが旅行に行ってる、と言ったのは嘘では無くて、彼女はポルト・アレグリという地域のカーニバルに呼ばれて行っていて、そのため彼女が地元パレードに来られないと知った、それからたった24時間でインペラトリスは彼女をさくっと切った。

20年もチームに貢献してきた、家族全員がインペラトリスに関わっていて、どんな時も決してインペラトリスから離れなかった彼女をまるで使い捨ての物か何かのように。

 

私はインペラトリスを愛しているが、彼女の解雇は意味がわからないし受け入れることはできない。

理由として地元のパレードに彼女はムーザなのに来なかったことはインペラトリスの多くの構成メンバーである地元コミュニティへの不敬に当たるからだと発表されていた。

地元コミニュティの人でカルメンが不敬だと怒っている者なんていやしない。

カルメンに関する記事についているコメントの怒りはカルメンに対するインペラトリスの不敬に対してだ。

 

あれから2日経ってその間にワッツアップ(日本のLINEのようなもの)の昔のインペラトリスのグループでも、彼女のショックを考えるとみんな彼女のメンタルが心配で、どうやったら彼女を支え、傷ついた心を癒せるか、どうやったら彼女をインペラトリスに戻せるのかをいろいろ話し合ったし、現在のパスィスタグループでもその話題で持ちきりだった。インスタでも後追いの記事もどんどん出てきて拡散されている。

 

インペラトリスのカルメン解雇の告知インスタはインペラトリスに対する非難と彼女への同情の声であふれ大炎上し、インペラトリスは翌日コメント欄を封鎖した。

 

いろいろ情報を集めると、彼女のこの問題の事はカーニバル関係のいろいろなメディアで取り上げられていて記事になっていた。少なくとも私が見たものはすべて、100%彼女を擁護するものだった。ある記事では、公式のイベントの時に何か役職のある人が来れないということはちょいちょいあることで、それなのになぜ彼女だけがそんな目に遭わなければならなかったのか、というところからそれは彼女が黒人女性だからで、サンバ界におかける黒人女性の扱われ方の闇から話題は人種問題にまだ発展している。

 

昔のパスィスタのグループワッツアップでは、はじめは彼女は誰の連絡にも応じないと皆で心配していたが、その中でも最も親しいカルメン昔のパスィスタ仲間がグループに、

彼女と連絡がついて今僕はもう彼女と一緒にいて、彼女も落ち着いてきてるから大丈夫だ、

という連絡がを入れてくれて、さらに翌日、本人からも

みんな心配してくれてありがとう、みんなは私の家族だ、

と直接書いてきてくれ、さらに

明日この問題について私は発言をします、

と事前報告をよこしてくれた。

そして実際、彼女は今日の夕方に自らのインスタで、ノーメイクで憔悴した様子だったが、一時は身体の具合が悪くなったが今はみんなの温かい言葉をうけて体調は良くなってきてるということ、心配して応援してくれるみんなへの感謝とお礼と、今は自分のケアをすることに専念するということを告げた。

インペラトリスに対する文句も恨み節も一切無しだ。

 

やっぱりカルメンは賢くて強い。かっこいい。

 

私はこのムーブが広がって、彼女はもともと特別だったけどこの件でさらに一躍有名になり、彼女の実力も人柄ももっともっと知れ渡って、インペラトリスは解雇を覆さなければならなくなり、彼女は以前よりも強く確固とした人気と立場で、インペラトリスのシンボルのような存在になってインペラトリスに戻ってくる、

そうなることを信じ、祈っている。

そして、カーニバル前から昔のパスィスタグループで約束していた期日未定のカーニバル後のシュハスコ会は、全て解決した後、みんなでカルメンがインペラトリスにめでたく戻ってきたお祝いの会になるはずなのだ。

 

今彼女のことを書かないでいつ書くんだ、と思って書きました。

長くなりましたが最後まで読んでくださってありがとうございます。

自分語りもちょいちょい入っていて長くなりましたが、ご容赦ください。